現在99パーセント 2004/ 9/ 13
この文章は小中校の教育に使用のときは著作権フリーとします。

      木炭の歴史と文化について
                                      足利工業大学電気電子工学科非常勤講師
                                                附属高等学校電気科教諭
                                                       岩ア 眞理
                                      
木炭の発見

 木炭が発見されたのは遠い昔のことです。それは人間が火を手に入れた時からの出合いです。この時代の
火災が起こる原因は木と木がこすり合わされたときの摩擦熱や、落雷、火山などでした。そして火災が自然に
消えた時に残った炭が消し炭です。この炭が、最初に出来た木炭です。その後、人類は日常の生活に必要と
した炭を作るようになってゆきます。それは遠い祖先の人たちの暮らしは、ほとんどが洞窟や崖の軒下などに
暮らしていました。 その洞くつ(窟)内や崖の軒下で火を燃すことによって、洞くつ内や崖の軒下は煙がたち込
め充満し大変なことになります。煙いし、苦しいし、ということで、何とか煙の無い生活を手に入れようとして最初
は外で木を燃やしてから消し炭を作りそれを集めて、洞くつ内に持ち込み、それにより暖を取ったり、料理などに
使ったと思われます。この時代の日本列島で人が生活し始めたのは氷河期時代(50万年前)でした。そのときの
日本とアジア大陸は、つながっていることにより大陸より人々が移動して入ってきたと考えら
れました。 しかし当時の人口は極端に少なく石器時代後期に入りやっと4600箇所の遺跡が確認され、その
当時の人口は15000〜25000人程度と推定されています。 この人々の中で木炭を上手く作ることを考える
人たちが出てきました。そして石器時代に木炭の製法を発見し焼き上げた人たちも出てきました。この理由は、
人類が作った消し炭でない木炭の痕跡が洞くつ内より発見されたからです。愛媛県喜多郡肱川町鹿の川遺跡
の石灰岩の洞くつ内で発見された木炭が日本最古ということです。(約30万年前ほどのことです)


日本人の成り立ち

 日本人が成り立ったのは大陸より渡来したマンモスを追う狩人であったと考えられ、そして古モンゴロイド人で
ある日本における旧石器文化を作り縄文人となった人々であったと考えられています。また古モンゴロイドの一
部はシベリアで寒冷地に適応した人達であり、中国を中心に広まった。特に私たち日本人の遺伝子は縄文人と
弥生人などの混血により出来上がったと考えられています。そして縄文人の遺伝子は沖縄人やアイヌ人に受け
継がれ、また縄文人と弥生人と渡来人が混血をして、本土日本人の祖先ができたと言われています。実際に
4.3万年〜3.3万年前に長野県の北東部の野尻湖からは人間が狩猟したナウマンゾウの化石が出土していま
すので日本にも大分人が住んでいたことがわかっています。また縄文式土器はどちらかと言うと低温の焚火(たきび)
で焼かれていました。縄目の文様に特徴があり簡単にできるので普及しました。そのために土器の出現により、料理
のレパートリー(種類)も豊富になりました。


最初の生活

 30万年前からの狩猟生活などをしてきたが1万3千年ほど前になると氷河期も終わりに近づき氷が溶け出した為
に日本列島は大陸と離れ、気候風土も現在と同じようになり始めました。そしてこれが1万年ほど続きました。
人々は陸上では動物を狩り、山野の植物をや木の実を採り川や沼や海では魚や貝を捕って生活をしてきました。
私の生まれた群馬県新田郡笠懸町で、もともと日本には旧石器時代には人はいなかった言われていましたが故相
沢先生の努力により鹿ノ川の丘の麓(ふもと)の崖(がけ)の中から石器が発見され、このことにより日本各地での旧
石器時代への遺跡の発掘が進みました。この岩宿遺跡の発見はの日本中の教科書に載りました。
この時代が石器時代から縄文時代への入り口となりました。縄文時代は土器の表面に縄文の文様があったので、
これから縄文式土器と言い、縄文時代を表す指標となりました。そして縄文式土器は生活の特徴を示すようになり、
日本各地から縄文土器の出土により日本列島が一つの文化圏でであったことが解りました。縄文時代の終わりに
水稲耕作が始まり豆類や栗、胡桃などの管理栽培が行われた遺構も多く見つかりました。その稲の原産地はインド
のアッサムから中国の雲南地方と考えられています。


土器の発達

 縄文式土器はどちらかというと低温の焚き火で焼かれていました。その次の時代の弥生式土器はそれよりも高
温で焼かれるようになり、高温で焼く場合には炭の高熱を利用したのかもしれません。このことから弥生人は春
秋戦国時代の約500年前から(現在では紀元前三百年前と言われています)中国や朝鮮から渡来した人たちで
すので、当然木炭の作り方を持ってきたと思います。中国では紀元前5世紀ころ、日本の縄文時代には大量の
炭が焼かれていたことが古墳の発掘により解っています。この弥生時代前期には、今までより多くの炭を必要と
されることになりました。冬の暖を取る為でした、炭は木と違い腐ることはありませんし、熱量(7Kcal/g)も多く便
利であったので、人々は狩猟や農業の合間に炭焼きを行い炭を蓄えてゆきました。そして次に述べる鉄や銅の
道具を作るための木炭でした。その後の時代になると木炭は暖房に使うことや煮炊きの料理以外にも利用され
る事になりました。特に弥生時代後期になると鉄器の道具の時代となりました。この時代の出土品には、すき(鋤)
、くわ(鍬)、おの(斧)、のみ(鑿)、ちょうな(手斧)などの鉄器や木部が発見されています。
 このころ西日本の山野の木の種類は、ほとんどが松を除く照葉樹林帯(かし、しい、つばきの木等)でした。この時代
は、焼畑農業が取り入れられて山野は切り開かれて木々は焼かれて灰を作り、畑に変えてゆきました。そして畑
の栄養素が無くなると別の場所に移動して行きました。残された大地には赤松が入り込んでゆきました。ですから
弥生時代はかし(樫)、しい(椎)、なら(楢)などの木炭が主流でした。


鉄器の道具


 最初の鉄は朝鮮半島より輸入されたのちに鉄製の刃先をもつ木製の鉄のくわ(鍬)や、すき(鋤)などの農具が作られ
るようになりました。水田や畑を耕すためと、秋になると稲の刈り取りに、かま(鎌)が使われるようになり、この鉄を作
るのに木炭が必要になりました。しかし鉄の精錬には木炭にも良質なものが必要とされます。鉄や銅は錆びた状態
がほとんどで、主に酸化鉄や酸化銅鉱石として産出されます。地名で、たたらと呼ばれている地域には製鉄所があ
り金山があるところは、どちらかと言うと砂鉄(酸化鉄・錆びた鉄)や銅などの鉱物が取れたところが多いと思います。
 この錆びというのは、酸化した銅や鉄の塊なので、酸化した銅や鉄から酸素を取り出してしまえば銅や鉄になる
わけです。そして木炭は炭素の塊なので、酸化銅や酸化鉄を砕いて細かくしてから木炭と一緒に混ぜてから火を
つけて、空気を送り込むことにより、炭は高温で燃え、かつ炭素の役割は、酸化銅や、酸化鉄から酸素を奪い純粋な
銅や鉄になり、そして炭素と酸素は化合して(くっつき合って)二酸化炭素という化合物になり気体として大気に出て
行ってしまい、残りの鉄や銅は高温の熱により溶けて湯溜まりを作ります。この炭素が酸化物から酸素を取る働き
を還元作用と言います。当時は10キロ程度の鉄作りでも木炭と砂鉄を交互に入れて下からふいご(鞴)で空気を送り
こんで、一日以上かかったと思います。現代のように電気が無かったので当時の鉄を作る仕事は大変な重労
働だったと思います。


伏せ焼き方炭の製造とは

 最初のころの木炭は伏せ焼き方という方法により炭焼きを行なってきましたが、あまり良質な炭は出来ませんでし
た。これを和炭と言います。伏せ焼きは、ゆるい斜面に幅2m、奥行き3mくらいを掘り、掘ったところの地面を平らにし
て、乾いた雑草や松葉を20pほど敷き、その上に直径10pほどの丸木を敷き、その上に木を60pほど積み上げ、
周りに乾いた雑草を50pほど置いて踏み固めます。山側に竹の煙突を置いて回りを粘土で包みます。それから上
部にも50pほど乾いた枯草を載せて踏み固め、その上に粘土を10p以上厚く盛ります。そして入り口は石を積み
上げて燃し口(焚(たき)き口)を作ります。この大きさは30p角程度です。そして全体に土をかけて踏み固めて、出
来上がりです。そして燃し口に木を入れて、10〜16時間ほど火入れをして、煙が奇麗な薄い青紫になったら、入り
口と出口を塞ぎ、1〜2日ほど置いて自然に温度を下げると炭が出来上がります。これらを改良して良い炭を作るた
めに人々が色々と研究した結果、現在の石窯の基礎を作ったと考えられます。


仏教の伝来と木炭

そして時代は邪馬台国の出現や大和朝廷の統一などにより多くの鉄器が必要となり、製鉄が多く行なわれる時期と
なりました。また日本書紀には戦争に炭を使ったとの事が書かれています。これは堀を作りその中に炭を大量に入
れて炭に火を付けて火の壁を作り、相手方を通さなかった事が書かれています。また鉄器は刀や槍の先などに使わ
れ、各部族の中から力の強い者が現れて、各部族をまとめあげて日本の礎を作りました。そして時代は奈良時代に
入り中国から仏教の伝来により、仏像を作るために大量の炭が必要でした。きを山(100ヘクタール)から大量に切っ
た為にいくつかの山は禿山になったかもしれません。しかしながら木は簡単に再生してゆきますので、数十年後には
元通りの山に帰ってゆきます。大仏は銅(739560斤・443736Kg)と錫(10261斤・6158Kg)の使用木炭は16656石
(3004076.16l)です。日本で最初の公害は、この仏像を作るときに表面に金(10446両・391.7Kg)のめっき(鍍金)を付
けた事が原因です。金を銅の表面に付けるには水銀(58620両・2198.2Kg)に金を溶かして銅の上に塗り、そして表
面を炭の熱により乾かしますと、水銀は蒸発し、金が銅の上に付着することにより銅に金のめっき(鍍金)されます。
 このときに水銀の蒸気を吸った方は病気となり沢山の方がなくなったと、当時の記録に書かれています。これが日
本で最初の公害の記録として残されました。また炭の伝承としては弘法大師により日本もたらされたと書いてある本
も有りますが、実際は元々から使っていたのです。この時代の背景を考えると説明を簡単にしたのだと思います。
この時の白炭を作る最新技術は技術立国である中国より入ってきました。


次の時代へ

 平安時代以降は税金の換わりに木炭で年貢を納める納炭もあり日本各地から中央に集められました。この時代に
は多くの貴族の邸宅が建ていられ、暖房や炊事に大量の木炭が必要とされました。それと共に家を建てるときに使う
くぎ(釘)、ちょうな、かんな(鉋)、かなづち(金槌)なども鉄から出来ています。この時代の家は隙間が多く、炭で暖を取
るのも大変で、その為に厚く重ね着をした十二単衣(じゅうにひとえ)が出来たのでした。農業における鉄の生産はすき
(鋤)、くわ(鍬)、かま(鎌)などが作られて米の生産量もあがってきました。そして地方にも鍛冶屋(かじや)が出来たのも
農業用の道具を作る為でした。同じように鉄は刀ややり(槍)の先などになり、時代が進むにつれ、地方の豪族は強大
な力をつけるために刀ややり(槍)が大量に必要でした。強大な軍隊を持つ為に、より多くの鉄が必要となり、そして熱源と還
元剤としての木炭が必要でした。その後、種子島に鉄砲が伝わり、各地の大名は競って鉄砲鍛冶を集めて、大量生産
を行う為に多くの木炭が必要とされました。


江戸時代の炭焼きの地位

 そして日本も統一され、江戸時代となります。この当時の木炭は大部分が暖房用として使われるようになりました。
ただ江戸時代の炭焼き職人の地位は士農工商よりどちらかと言うと最下層でした。しかし関西では元禄時代に備中屋
長左衛門が馬目樫を使った、白炭窯を完成させ、その名前が備長炭と言う名称で残っています。 この白炭窯は100
0度前後の高温度を作り出し、硬質の炭が完成し、この炭により、今までより日持ちの良い炭が完成しました。この炭
は黒炭に比べ高温でかつ日持ちも良く遠赤外線も多く出るのが特徴でした。この時代の白炭作りの名人は2mほどの
備長炭を作り、両端におけ(桶)をつる(吊)しても炭が折れなかったと言う話もありました。今では備長炭は焼き鳥や、うな
ぎの蒲焼などに使われています。時代により各地で税金として木炭を製造する人たちから木炭を納めさせていました。
同じように鉄は刀ややり(槍)になり、各大名は強大な軍隊を持つ為に、より多くの炭が必要でした。


木炭の用途

 しかし江戸時代になり国も落ち着いてきましたが、人々の生活には多くの木炭が必要になりました。まず炊事用、暖
房用、水のろか(濾過)用、農業用としては養蚕、製茶、寒天製造、しいたけの乾燥の燃料、その他苗床の保温、下痢
止め材、化粧品や絵画などに炭が利用されています。 また鉄砲や大砲の火薬として黒色火薬の原料として炭が使わ
れました。火薬用の炭は桐、柳、はんの木、梅モドキ、ヤマナラシの若木が用いられました。現在でも鉄鋼などの表面
の研磨用として、キリ、ツバキ、エゴノキ、ツツジ、ハンの木などの炭が使われます。また紙やすりに使われている研磨
用の細かい粒もカーボランダムといって炭素の加工品の一種です。


近代化について

 江戸時代も終わり、明治に入り、日本は外国から当時の最新技術を莫大な、お金を支払って導入しました。この結果
のために日本は外国から侵略されず植民地とならず、そして攻められなかったのでした。その導入された新しい技術は
日本人の知恵と努力という形により瞬く間に技術力を向上させ、かつ国力を増強させ、外国と太刀打ち出来るようになっ
たのでした。その応用品目は鉄道、造船、蒸気機関、水力、土木、建築、電気、電話、織機、製鉄、兵器、化学など総て
にわたっています。


日本の近代化と公害

 日本は石炭産業を進め、この石炭のエネルギーにより産業を発展させたのでした。しかし、この結果において日本各
地の銅などの鉱山で石炭が使われるようになりその中の1つとして足尾の銅の精錬も炭から石炭に変わったために、
石炭に含まれている硫黄が燃えることにより亜硫酸ガスが発生して、この亜硫酸ガスが硫酸となり周辺の山々の木々
を枯らしてしまいました。雨水は裸になった土壌に直接当たり表土を流し、岩石が露出し雨水を蓄えることが出来なくな
った。その為に荒涼たる山に変えてしまいました。そして、この周辺の人は亜硫酸ガスによる呼吸器系の病気の為に
沢山の方々が亡くなっています。場所によっては松林が全滅したところもありました。この足尾には国や民間団体が土
を運びあげて、元に返す努力をしていますが、現在は中国の産業の発展に伴って、石炭の使用料が増加し発生した亜
硫酸ガスが偏西風により日本に飛来して、その結果、雲の中の水と出会い酸性雨や霧となり日本に降り注いでいます。
その酸性雨が、葉や幹の表面で濃縮され、次の雨で根元に洗い落とされ、この酸により土の中のアルミニウムが溶け
出て根が燐酸の吸収を阻害する為に木々が枯れ初めているところも有ります。 日本炭焼きの会・会長の故岸本定吉
博士(2003年11月15日没95歳)が足尾を木炭で中性化をしてみなさいという指示を炭焼きの人たちに言われ、その中
で群馬県勢多郡東村わらべ工房の所長が最初に手を上げ、各団体に話をされて、皆の取りまとめを行いました。その
結果、日本炭焼きの会、海外炭焼き協力会、わらべ工房の所長の炭焼き関係の教え子たちや宇都宮グリーントラスト
などの団体の中からボランティアが集まり数年前から年2回、足尾の安蘇沢上流の松の木の根元に炭を撒いて、土壌
中性化を行いました。現在その地域では良好な結果が出ています。2003年度からは植林事業も行っています。そして
環境のデーターは元東邦大学の大森禎子博士が毎回、土壌採取して結果をまとめています。今までに足尾の山には木
炭を10トン以上を運び上げて木の根元に撒きました。撒いた地域の木々は元気に育っています。渡良瀬川の下流地域
では足尾の山から出た重金属が川に流れ込み、その結果流域の小河川にまてで入り込み、米の生育阻害の元凶とな
っています。一部地域は客土を行いましたが、まだ完全には取り除けていません。渡良瀬川の重金属は銅・砒素・カドミ
ウムなどが上げられます。この重金属を吸着させるために高温度で焼かれた竹炭による実験も開始され、来年にはデー
ターを公表できると思います。


明治時代からの木炭の推移

 明治に入り近代化の速度は大きなエネルギーを使うようになり木炭の代わりに石炭が使われるようになってから、木炭
の使用料は少なくなってきました。明治時代初期には200万トン以上も生産された木炭の生産量は現在は、わずか5万
8千トン程度に落ち込みました。時代と共に電気の機械の発達により、水力、火力、原子力発電と言うように変化し、その
ためにエネルギーとして木炭の使用料は少なくなりました。しかしながら現在はまた木炭も色々な場所に応用できることが
解ってきたので少し見直されていますが、いいかげんなブームに炭が終わらないいことを願っています。


もし、炭の歴史と炭のことについてもっと知りたい方は参考文献を読んでください。

古代の歴史は変わってゆきます。
 世界中にはノアの箱舟を代表するような海水の上昇を伝える話が世界各地で伝えられています。
これは最後の氷河期が終わり氷が溶け出し海面が20〜40mほど上昇した為と考えられています。
そして世界各地で水没した古代遺跡が見つかり調査や発掘が行われ初めています。
日本でも沖縄や北海道の海の中にストーンサークル見たいなものが有るようです。
現在有名なのはインド西側の海中都市遺跡です。


 参考文献
      炭       岸本 定吉著 株式会社 創森社 (1998)
      炭・木酢液のすごさがよくわかる本 岸本 定吉監修 中経出版 (2001)
      日本人はどこから来たか 加藤 晋平著 岩波書店 (1988)
      岩宿の発見 相澤 忠洋著 講談社 (1966)
      理科年表 平成14年版 国立天文台 代表者 小平 桂一 丸善書店 
      考古学の散歩道 田中 琢・佐原 真 共著 岩波書店 (1993)

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